2010/05/06 ■ 技術が『レガシー』になった時(「ギャラクシアン3」延命作戦) Twitterでつぶやくこのエントリーをブックマークに追加このエントリーを含むはてなブックマーク

「ギャラクシアン3」という大型アーケードゲームがあります。もともとは「国際花と緑の博覧会(1990)」に出展するために作られたナムコの28人乗り大型シューティングアトラクションだったものですが、その後ナムコ・ワンダーエッグ版(28人版)・16人版・6人版・プレイステーション版などが作られていきました。その誕生から既に20年が経っていますが、いまだに根強いファンがいます。って私もファンなわけですが。

しかしこの「ギャラクシアン3」というゲーム、「28人版」「16人版」「6人版」というプレイ人数で一目瞭然ですが、たいへん巨大なゲーム機でもあります。設置面積は最小の6人版でも5m四方、最大の28人版では「建物一棟」。維持管理が非常に大変で、2010年2月、日本で最後の商用設置機が撤去され、ついにすべてのバージョンにおいて日本での商用設置が無くなってしまいました。

商用では全機が撤去されてしまいましたが個人ではまだ国内でも数人が保有しています。そもそも個人で持てるようなサイズの機械では全くないのですが、そこは根性。まったくたいしたものだと思います。なかでも「アーケードゲーム博物館計画」さんは、たまに倉庫を一般開放してみんなで遊べるようにしていますので、気になる方はぜひチェックしてみてください。

さて。
そんなわけで熱いオトコたちが趣味(と気合と根性)で維持しているこのゲームですが、プレイアブルなまま今後も保存していくためには大きな課題があったりします。

その課題とはずばり、レーザーディスク。ギャラクシアン3の背景にある美麗なCGは、あらかじめレンダリングしてあるものをレーザーディスクに動画として収録しているのです。その動画を再生しながら、手前に敵の機体をポリゴンで描画し重ね合わせる。このゲームはそんな仕組みで動いています。いまの感覚では「なんでそんな面倒なことを?」とピンとこないかもしれませんが、このゲームが開発された当時ではコンピュータで美麗なCGをリアルタイムにレンダリングすることは難しかったし、そして動画をやはりコンピュータ上で長時間再生することも大変コストのかかることだったのです。必然的に帰着したのがレーザーディスクという方法でした。

ですが、このレーザーディスクのプレイヤー、やはり壊れます。ただでさえ可動部品がたくさんあるプレイヤーです。発売から15年以上(シアター6/1994年)経った現在では相当な故障率となっており、スペアがいくつあっても足りない状態。先に挙げた「アーケードゲーム博物館計画」さんでも故障したプレイヤーがまさに死屍累々。「故障」と書かれたオブジェが山積みになっています。まだかろうじて「ギャラクシアン3」はプレイアブルですが、いつ在庫が切れて稼働不能になってもおかしくない。

しかしじゃあ一般の中古LDプレイヤーを買ってくればいいのかというとそうもいきません。外部から再生を制御するための制御端子・ポリゴンを重ねあわせるための外部同期端子など特殊な端子のある業務仕様プレイヤーを使っているため、カンタンに補充を調達できるようなものでもないのです。
となると、もはや延命するためには「レーザーディスクの代替品を作る」しかありません
DVDに焼いてDVDプレイヤーぶら下げればいいかというとそれもキビシイ。先述の制御端子や外部同期端子などが必要になってくるだけでなく、シーク(頭出し)の速度が全く追いつきません。LDは実はシークの速度が超高速で、それがゲームにとって重要だったりもする(大型敵を破壊したかどうかで背景動画の展開も切り替えられるが、その切り替えがレーザーディスクの頭出しで行われる)のです。LD地味にすごい。

というわけで、動画の再現は結局PCの動画再生をそのまま使うことにして、シークを高速化・正確にするためにコーデックを工夫、ソフトウェアでレーザーディスクの制御信号をエミュレーションすることにしました。…というか、そういう方針でいま作ってます。
外部同期は外部同期入力つきのスキャンコンバータを別途用意することでなんとかします。厳密には1フレームくらいの同期ずれが発生してしまうかもしれませんが、そこはもう仕方ないので目をつぶることに。

ギャラクシアン3のレーザーディスクとプレイヤーをお借りして試行錯誤しているところですが、まぁ、なんとかなりそうです。


しかしこうやって延命処置を手がけ始めると、つくづく痛感するのが「レガシーな技術に依存したシステムは、延命するのに非常にコストがかかる」ということ。業務システムなどでは実にあたりまえの話なのですが、これが「ゲーム」や「メディアアート」となってくるとそもそもそういう点を気にする人があまりいないだけに話は深刻です。

「当時の」最先端技術を使って作られたこういった表現作品の「体験」を、その「体験」のまま未来へ残そうとすると、必然的にこの壁にぶつかります。宿命といえばそれまでですが、表現作品がその体験を後に残せず消失してしまうというのは実に寂しい話であります。

ちょうど先日の事業仕分けではYS-11を動態保存するのに年間900万円かかるという話がありましたが、こういった「レガシーな技術に依存した表現作品」が、現在進行形で知らず知らずのうちに再現不能・消失してしまっていることについても、少し関心を向けていただけるとうれしいなあと思います。私自身が残したいと思うものは当然全力で残すよう努力しますが、そういう「残す技術」に巡り会えなかったものは、今も人知れず消えていっているはず。後世から振り返って「あの時代の実働資料だけ残っていない」と言われないよう、できるところからでも手当てしていきたいものです。



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